2012マンスリーコラム

トップページ

3月号

平尾山荘


マンスリーコラム

住ミナスモノハ 心ナリケリ。

 郷土の歴史上の人物を問われて野村望東尼(のむらもとに )は、福岡市民が挙げておそらく十指にはいる。しかし、その人物像は、「平尾山荘の勤皇歌人」であり高杉晋作、平野國臣との親交、尊攘派粛清のあおりで姫島流罪になった事情を説明できれば上出来であろう。遺稿を読み解く地道な手法により維新史観で強調された「勤皇歌人」を矯正し、「時世の記録者、一級の文人」としての実像を彫出する作業が長年の研究者・小河扶希子氏によって進行中である。
 福岡藩士の家に生まれ、城下でも評判の利発な少女は、二川相近(書家・『黒田節』の作者)の塾に学んで学問、書などの基礎を身につける。のちに短歌を大隈言道に師事することになるが、十七歳のときの結婚と直後の離婚は、〝おもしろきこともなき〟人生の予兆だったのかもしれない。
 塾同門の藩士後妻・三人の男児の母(二四歳)、家督移譲と平尾山荘への移住(四〇歳)、夫の死と出家(五四歳)など節目の大事はそれとして、二十代で発症した肺結核を養いつつの日々、婚家当主の自刃と家断絶、子ども全員との死別・・・六十二年の人生は、「勤皇歌人」の凛とした印象からは見えない俗世の試練であった。それを支えた詞(ことば)の道(文学)への思い。配流の身にあっても筆三昧(ふでざんまい)、克明な獄中記を残したことが証し。勤皇の同調者になるのは、見聞上洛して京の騒然に身を置いた晩年である。
 おもしろき事もなき世を面白く住みなすものは心なりけり―流麗な筆の色紙が、司馬遼太郎が高杉臨終の句として描く『龍馬がゆく』の誤謬(ごびゅう)を正し、なお、衣裳櫃(いしょうびつ)いっぱいの無言の書簡集。望東尼の思い、埋もれた維新史の解き放たれる日はいつ・・・。





トップページ

2012マンスリーコラム