2011マンスリーコラム

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10月号

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マンスリーコラム

暗礁ノ海ニ灯火トモサン。


 岬に添える点景だけのために灯台が存在しないのはもとよりである。年間二万隻の舟船が往来する関門海峡。急潮と浅瀬・暗礁の点在が船人の操船を誤らせた。真砂が「島」を成す企救(小倉の古称)の海の「白洲」は海峡西口のとりわけの難所。幕末から明治の険しい時局に灯明台を築こうと奮闘した岩松助左衛門の物語である。
 小倉・長浜浦の漁師・庄屋として海難救助の数々を経験し暗礁の危険から舟船を守る悲願を胸中に深くした。庄屋の務めを終え還暦を前にして小倉藩に命じられた「難破船支配役」は天の声であったろう。真砂の上に石垣を築いて灯明台をつくり、管理人を住まわせて常夜灯とする・・・自ら設計した絵図、周辺海図を作成して海運業者、商人、漁民らに寄付を募った。
 三千両を要する大事業はしかし、難破船の減るをきらう漁民の反対で出鼻をくじかれる。救難活動に支給される日当、不法を承知の漂流物拾得は漁民のささやかな生活の足しであった。幕末の動乱、戦火を交えた末の長州藩による企救郡の占領。灯明台建設は認められたが、募金活動はさらなる困難に直面した。私財をつぎ込んでの石垣、海岸防波堤の強行着工は起死回生の策だったが、未完のままその背に多大な借金が残った。
 執念の身を病床に横たえて明治政府による工事継続の報を知る。「灯台」と近代の名を得て点灯したのは一念発起から十年を経た明治五年十一月。助左衛門は半年前に没して悲願の灯を見ることはなかった。波間に黒白の紋様がいさぎよい澪の塔は夢の続きである。





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