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9・10月号
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九州を知る! マンスリーコラム68

福沢 諭吉

中津市出身
1835年〜1901年(満66歳没)


他ニ迷惑カケナクバ
人ハ自由ナリ。

 明治維新(一八六八)はこの人三十三歳の春であった。日本近代革命の年が六十六年の生涯を等分する分水嶺であった偶然が福沢諭吉を象徴する。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」に始まる『学問のすゝめ』は十七編総計で三百四十万部の空前のベストセラーとなった。武家下層の不条理をマグマとする封建身分制に対する激しい拒絶、合理精神に基づく個人・国家の自由独立、を思想の中核に文明を啓蒙し続けた思想家、教育者である。

 豊前・中津の下級藩士だった父が理財の役職にあった商都・大坂で生まれたものの生後間もない父の死で育った中津城下は利発な少年には窮屈で耐え難く、外界への憧憬(しょうけい)の強い衝動となった。長崎での蘭学事始(らんがくことはじめ)から大坂の緒方洪庵塾での修学を経て江戸・築地の藩邸一隅で蘭学を講じるまでになる。来年創立百六十年を迎える慶応義塾は藩命による安政五年の開塾を源流とし、校名は慶応四年(明治元年)に現在の東京・浜松町に移転開校した年号に由来する。

 咸臨丸での太平洋横断をはじめ、維新以前に三度(みたび)も欧米を体験した稀有(けう)の日本人である。日米通商条約の批准書交換使節団が派遣されると知り、独学の英語力を売り込んで軍艦奉行の従者となった挿話は天性を彷彿(ほうふつ)させる。二年後の欧州使節団員としての巡遊は一年におよび、先進文明とロシアを含む帝国主義国の勢威に衝撃を受けた。『西洋事情』は見聞に基づく情報百科の集成である。幕末・明治の同胞、政府当局者に与えた啓蒙効果は計り知れなかった。

 「脱亜論」により、欧米と対峙(たいじ)するのに清国、朝鮮とともに立つ理想を捨てたリベラリストは日清戦争に際して「臣民の覚悟」を説く熱烈な愛国者であった。「手足を切られる思い」の巨額一万円を戦費拠出している。旧弊を仇敵(きゅうてき)とする自由人にとって日本人を儒教の呪縛(じゅばく)から解放する戦いを意味した。その功による叙勲ばなしを一笑したのは政治家、軍人が勲章を競う時代に俗欲を嫌悪した人格の面目。「壱万円」の肖像になった現実には笑止を禁じ得まい。

(文・山﨑 潔) 

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福澤諭吉旧居・福澤記念館

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サンフランシスコにて(前列右が福沢)

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『学問のすゝめ』冒頭


所在地:大分県中津市留守居町586
※写真提供:(公財)福澤旧邸保存会


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