2017マンスリーコラム

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8月号
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九州を知る! マンスリーコラム67

広田 弘毅

福岡市出身
1878年〜1948年(満70歳没)


計(はか)ラワズ
自ラヲ弁明セズ。

 大東亜の呼称は独善だったとしてもアジアを蚕食(さんしょく)・搾取(さくしゅ)する欧米の理不尽を前にして「東亜の諸民族とともに立つ」の思想が日本にはあった。広田弘毅。先の大戦を太平洋戦争と称した勝者が大東亜戦争を戦った敗者を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)で文官としてただひとり絞首刑の台に立った。侵略の計画・実行を謀議(ぼうぎ)した罪、軍の非人道を黙認した罪。日中戦争(昭和十二年)から大戦に向かう時局に首相、外相と国家の枢要にあった責任が問われた。

 吉田茂と同期の外交官。日清戦争で日本に割譲された遼東半島が三国干渉によって返還を強いられた外交事件に触発された。現在の福岡・天神三丁目に生まれた石工(いしく)の倅(せがれ)の立身(りっしん)には、出自や身分に関係なく有為な人材を支援する社会が当時はあった。政治の舞台に引き出されたのはソ連大使を最後に引退の心積もりで湘南海岸に隠棲(いんせい)中である。五・一五事件で政党内閣が終焉し、国際連盟を脱退する危急。外務大臣としての強い要請に応えたものであった。

 統帥権(とうすいけん)を権威とした軍部が鉄の圧力となり、要人テロが相次いでいた。広田外交は海軍穏健派の斎藤実、岡田啓介両内閣の下で軍部の独走を排し信義に基づく協和を目指したが、ニ・ニ六事件直後の首班内閣では粛軍に実績を残したものの、陸、海軍大臣の現役武官制を復活させ軍部の政治干渉への道を開いた。日中開戦、南京事件、大戦への道・・・軍の暴走を追認し結果として惨禍に導いた慚愧(ざんき)と悔恨(かいこん)が、外務大臣(第一次近衛文麿内閣)としての歴史にある。

 国際法廷で自らの弁護を拒否した。娘たちは黙して語らない父を傍聴席から欠かさず見守り、妻は面会のひとときを過ごしたあと、真愛の命を絶った。「軍部ファシズムに追随した」は一つの評価だが、A級戦犯との割符(わりふ)で論じる江湖(こうこ)には組みしない。東京裁判にある〈a 平和に対する罪〉は罪状の分類に過ぎず、素直に表記すれば「a類戦犯」であるはずだから。「A級戦犯」には残虐・非道を意図して想起させる含意が臭う。昭和の苦難を思う鎮魂の八月である。

※江湖=揚子江と洞庭湖を指す。中国の故事から転じて世間、一般社会を意味する。

(文・山﨑 潔) 
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広田弘毅先生銅像(福岡市美術館入口近く)

所在地:福岡市中央区大濠公園1-6

※写真提供:国立国会図書館



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