2017マンスリーコラム

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2・3月号
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九州を知る! マンスリーコラム63

伊東 玄朴(げんぼく)


佐賀藩・神埼郡出身
1800年〜1871年(満70歳没)

百姓ノ子、
将軍主治医二昇ル。

 〝天然痘〟と、いつから言い習わすようになったのか。医学用語で言う痘瘡(とうそう)は最も致死率の高い感染症として二〇世紀にいたるまで恐れられた。佐賀・神埼の貧農から将軍の主治医に上り詰め、種痘を普及させて天然痘予防に貢献した業績が特筆される幕末の医師である。仲間の蘭方医を結集して開設された江戸は神田のお玉ヶ池種痘所。将軍、藩主も埒外(らちがい)でいられなかった不治の病の総合診療所、西洋医学の拠点として創設を主導したのが伊東玄朴である。

 新時代の予兆、西洋文明が往来する長崎街道の胎動に触発された立志の情念…農家では求め得ない将来を期して近隣の寺や漢方医のもとで学問した少年は立身の道を医学に見据えて佐賀城下の蘭方医を頼り、その勧めで長崎の通詞に蘭学を師事した。住み込みで働きながらの勉学の日々にシーボルトの鳴滝塾に通い、外科手術など最新の西洋医学を学ぶことができたのは、同門生との付き合いさえ断って一途専心の苦学生に天与された僥倖(ぎょうこう)であった。

 通詞としてシーボルトの参府に従った師に随行する機会を得て江戸の同学と縁を結ぶことができたのも、シーボルト事件で禁制の地図を受け渡す役を演じながら連座を逃れたうえに事件の影響による蘭学者の減損が福となり幕府天文方に席を得て名聞を高めたのも、持てる運と才能であった。象先堂(しょうせんどう)の看板で開院した診療所は門弟宿舎を備えて間口二十四間(約四十三メートル)。物見高い江戸っ子の評判を呼んで患者が列を成し、門前に茶屋・飲食店が並んだ。

 玄朴三十歳。その二年前には英明の藩主として藩史・維新史に名を残す若き鍋島直正に藩医・武士としての身分を付与されている。象先堂の評判、お玉ヶ池種痘所の成功が勢威となって奥医師(将軍主治医)として栄達を極めた。漢方医が主流だった江戸城の医療陣に蘭方医を定着させた政治力も玄朴であった。「お玉ヶ池」は、近代西洋医学発展の礎として東大医学部の源流となる。立身の宿願と社会貢献を併せ果たすことのできた稀有の人生であった。

(文・山﨑 潔) 
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旧東京医学校本館(現東京大学総合研究博物館)
お玉ヶ池種痘所は慶応4年に解散。明治に復興し東京医学校となる
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伊東玄朴旧宅(神埼市)
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旧宅内部(入場無料)

所在地:佐賀県神埼市神埼町的1675
※写真提供:佐賀県神埼市役所



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