2016マンスリーコラム

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4月号

九州を知る! マンスリーコラム55
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江藤 新平
佐賀市出身
1834年〜1874年
(満40歳没)

国家ノ使命ハ民心ノ安堵(あんど)。

 その熱弁をおとぎ話のように聴いた。空気と水はどこにも負けないと自慢し、村里の神社の由緒をたとえに記紀にさかのぼって日本の起源を夢想する山間から十指に余る医者が輩出した・・・背振(せぶり)の山里(佐賀市富士町)に生まれ福岡市内で病院を開業する彼は、脱藩罪でこの地に蟄居(ちっきょ)した若き江藤新平が私塾を開いて子弟に学問を教えた歴史を続けた。佐賀藩が生んだ幕末・明治維新の偉才に先人が学んだ誇りと、教育の力を伝えたかったのである。

 明治維新で想念される姿は統治体制の革命、生活文化の洋風化だが、核心は身分制度を廃して民衆の権利を国法に刻んだことにあった。江藤新平は司法卿・参議を頂点に新政府に身を置いた四年間に民(たみ)の安堵(あんど)と権利を守る立場から法令の整備を主導して司法権自立の基盤を固め、国民の知識を高める学制の確立に尽力した。「治国の骨格」として三権分立と議会制を主唱した革新性がかすみがちなのは守旧派と誤解させる征韓論、佐賀の乱の巷説(こうせつ)による。

 金に縛られた娼妓(しょうぎ)の女性を牛馬にたとえて人身売買を禁止する法理とした「牛馬きりほどき」の逸話が残る。娼妓は人としての権利を失っていてその意味では牛馬と同じであり家畜に債務が生じないのと同様に雇い主との間に債権債務の関係はないという奇想である。法律で禁止してもなお借金を理由に解放されない現実があり、旧弊の不条理、不正義との格闘の裏返しであった。自由を求める女たちには大いなる勇気と励みになったと伝えられる。

 働き盛りの四十歳。政府中枢にあって西郷隆盛らと下野した事件を「征韓論の変」に仕立てたのは権力をめぐる勝者の欺瞞(ぎまん)である。朝鮮との外交課題を平和的に解決するために西郷自身が使節となる閣議決定を経て外交交渉実現を待つなかであった。士族の不満が沸騰する渦中に帰郷して騒乱の頭領(とうりょう)に担がれたのは江藤の運命としても自ら心血をそそいだ近代司法のもとでの野蛮極まるきょうしゅ梟首(さらし首)。その面妖(めんよう)さが権力の私怨(しえん)の証である。
(文・山﨑 潔)
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佐賀城鯱(シャチ)の門

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佐賀城本丸歴史館

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鯱の門の銃弾跡(明治7年・佐賀の乱)

所在地:
佐賀市城内2丁目18-1


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