2015マンスリーコラム

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7月号

九州を知る! マンスリーコラム48
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草野 丈吉
長崎市出身
1840年〜1886年(満45歳没)

元祖、カリスマ・オーナーシェフ

 バッテラ寿司が幕末の長崎の料亭で生まれたと聞いて信じる人はまずいない。フナ寿司をヒントに近海のサバを素材として考案された。異国的な称がポルトガル語の小舟の意で姿形の類似に由来すると説明されて、「長崎起源」の確かな説得力となる。和・洋・華が混然して、そこここで近代日本の「事始め」の遺構や石碑に出会う街自体が万華鏡。西洋料理史の巻頭にその名をしるす草野丈吉と洋食店「自由亭」もまた、ハイカラ好きの長崎人の自慢である。

 西洋料理と日本人。最初の〝伝道者〟は信長の時代に長崎に来航したポルトガル人、鎖国時代のその役割は出島のオランダ人や商館に出入りする人たちであった。欧米の開国圧力で揺れる時勢に出島で職を得た十八歳の丈吉もそんな日本人の一人であった。居留者の住み込み雑用人に過ぎなかったが、見よう見まねの料理が評価され、総領事の私邸や寄港艦船の厨房で修行を積む機会を得る。商館の専属コックを任されるまでになるのは彼の器量であった。

 市内伊良林町の生家に洋食店・良林亭を開業するのは二十四歳の文久三年(一八六三)。酒樽に板をわたして白布を広げた食卓は六人で満席というものであったが、現価にしてコース二万円近い高級フランス料理並みの値段にもかかわらず、維新前夜の長崎に集う遊客で繁盛した。翌年、隣地に新装してその名も自由亭と改める。外国人をもてなす長崎奉行はじめ、薩摩の五代友厚、土佐の後藤象二郎、佐賀の佐野常民ら華客(かかく)に愛されたことが腕の証しであった。

 さて、料理。自由亭のメニューは現存しないが、国賓として来日した南北戦争の英雄、グラント将軍の歓迎会を担当した丈吉の食器録を見るときわめて本格的な西洋料理だったことが推量できるという。オーナー・シェフの草分けとして文明開化の大阪、京都にホテル・料亭を展開して貴賓の饗応(きょうおう)に才覚を発揮しながら道半ばにして四十五歳で病没した。自由亭の建物はグラバー園に復元され、「西洋料理発祥の地」の碑とともに港のにぎわいを眺めている。

※写真提供:長崎グラバー園管理事務所
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旧自由亭(グラバー園内)
所在地:長崎市南山手町8-1

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