2015マンスリーコラム

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5月号

九州を知る! マンスリーコラム46
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副島 種臣(たねおみ)
佐賀市出身
1828年〜1905年
(満76歳没)

識見ト高潔ト恬淡(てんたん)ト。

 皇帝に謁見(えっけん)する外国公使に〝土下座(どげざ)〟を強いる事件が明治初めの清国で起きた。中国朝廷の旧習、跪拝(きはい)の礼である。「侮辱」と憤る外交団。副島種臣が条約批准書交換の全権大使として訪れた北京は渦中(かちゅう)にあった。副島は、にもかかわらず跪拝することなく謁見を実現する。聖賢の教えを引用して非礼を説き、知略を駆使しての朝廷工作・・・明治政府で随一と言われるほどに書、漢詩にすぐれ、中国の歴史・文化に精通していた。佐賀藩が生んだ偉才の識見(しきけん)と外交センスを象徴する逸話である。

 維新の群像の中でも「燻銀(いぶしぎん)」に譬(たと)えたい元勲である。事蹟と人物を凝縮すれば、政府高官として新しい国民国家の政体、法制度を構想して礎となし、外務卿(外務大臣)として列強の圧力が迫る揺籃期(ようらんき)に大義を貫いて国益とすることができた知性である。藩校弘道館の教諭で四歳の息子に儒教の四書(ししょ)の素読を授けた父は国学にも通じて天皇中心の国家制度「日本・一君論」を説き、父の勤皇論を引き継ぐ兄も藩校で講じた。万巻の書を読破して資質を磨き、「とき」に備える環境に恵まれた。

 実は、尊王倒幕に挺身(ていしん)した幕末に新政府出仕の契機となる外交デビューを果たしている。英学校で学んでいた長崎が奉行の撤退で無政府状態になるや、各国領事との渉外を担って日本の立場を守った。欧米に旅立つ岩倉具視を継いで外務卿に就くのはわずか四年後。樺太国境問題、琉球帰属などの副島外交のうち、横浜に寄港したペルー船の中国人奴隷を、人道と主権国の職権に基づいて解放させた事件。謝罪と賠償を要求するペルーとの国際裁判に勝利して日本の威信を世界に示した。

 外交の表舞台はこの二年間のみで、征韓論の政変で下野してからは政治と距離をおいた。しかし、天皇に学問を進講する侍講(じこう)局総裁、枢密顧問官として仕えた明治天皇の信任は篤(あつ)く、ある事情からの侍講職辞意を伝え聞くと天皇は「朕(ちん)ヲ誨(おし)ヘテ倦(う)ムコト勿(なか)ルヘシ」と宸翰(しんかん)(※)で慰留した。豆腐、ひじきを好み、来客は貴賎を問わず十銭弁当でもてなした。借金して化粧回しを贈るほどの相撲好きは恬淡の士のご愛嬌。「柩(ひつぎ)は力士に」の遺言に従い、最期は横綱常陸山らに担がれて送られた。


※宸翰…天皇直筆の手紙や文書のこと。


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帰雲飛雨(副島種臣筆):佐賀県立美術館蔵

所在地:佐賀市城内1-15-23

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