2015マンスリーコラム

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2・3月号
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観光遊覧バス(日本で初めての女性バスガイド 油屋熊八が考案)
※写真提供:別府市誌

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JR別府駅 油屋熊八の銅像
所在地:大分県別府市駅前町12-13

九州を知る! マンスリーコラム44

油屋 熊八
1863年〜1935年
(満71歳没)
別府観光の父

神ノ使徒ヲ迎エル如ク。

 湯の街の旅情と紅灯のにぎわいを求めて年間八百万を超える人が訪れる。世界に開かれて日本を代表する観光地。泉都・別府の繁栄が聖書の教えに導かれたという逆説には説明がいる。この街の発展に貢献して「別府観光の父」と語り継がれる油屋熊八。放浪のアメリカで出会った「旅人へのもてなしを忘れてはいけない。こうして人たちは御使(みつか)いたちを、それと知らずにもてなしたのだから」(「ヘブル人への手紙」)が観光哲学の原点となったと伝えられている。

 四国・宇和島城下の米問屋に生まれながら明治の変革期に家業の先行きを見限って米相場に投じたのが波乱の幕開きとなった。〝油屋将軍〟の異名は大阪の相場で巨万の富を築いたあだ花の象徴であり、結局は日清戦争後の相場で失敗し、数年にして天国も地獄も味わった。無一文のアメリカ渡航。熊八の心境はその後の人生で推し量るしかないが、帰国直前に洗礼を受けて取り結んだ日系人牧師との機縁が「運命の言葉」との出会い、「回心」の奇縁となった。

 古里と豊予海峡を間にしたこの地で始めた小さな旅館が観光事業家としての再生の第一歩。明治四十四年のその年、小倉―大分間に日豊線、翌年には大阪―別府航路が開かれて浮揚のときを迎えていた。客を求めて駅頭、桟橋に立つ地道な努力と併せて、客の要望を聞く意見箱の設置、国旗を掲げての外国人歓迎、急病に備える専任看護婦の雇用などなど、神の使徒を迎えるが如き気配りと奉仕の実践が一流ホテルへ発展をもたらしたのは道理であった。

 特筆すべきは自動車時代を予見し、観光資源としての温泉の魅力を確信して未来を構想した才覚であり、広告宣伝の効果に着目し、私財を投じて別府温泉PRに尽くしたことである。女性ガイドが添乗する遊覧バスを考案して「地獄めぐり」を観光の目玉にしたのは一例、「やまなみハイウエー」は久住、阿蘇、雲仙を結ぶ構想の結実である。「山は富士・・・湯は別府」の標柱を富士山頂に建てるなど、奇抜な着想も熊八の真骨頂であった。生涯現役で昭和十年没。「生きてるだけで丸儲け」の歓喜を生きた七十年であった。

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油屋 熊八
※写真提供:別府市誌
 
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