2014マンスリーコラム

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11月号
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枢密院会議之図  
佐野常民記念館所蔵

所在地:佐賀市川副町大字早津江津446-1


九州を知る! マンスリーコラム41

佐野 常民
佐賀市出身
1822年〜1902年
(満79歳没)

博愛ハ文明進歩ノ証シ。

 紛争の渦中でも絶対不可侵のメッセージである赤十字。スイス国旗白十字の配色を反転した紋章は創設者デュナンの母国に対する敬意である。死傷兵が放置されたイタリア統一戦争の悲惨に遭遇し、救護に献身するとともに惨状を国際社会に訴えたのがきっかけであった。傷ついた兵士に敵味方はない―パリ万博の一隅で国際赤十字の活動に感銘した佐野常民(さのつねたみ)は十年後の西南の役に博愛社を組織し、死傷兵を政府、薩摩の別なく救護した。日本赤十字社の礎である。

 佐賀城下から六キロ、筑後川の河口に近い早津江(佐賀市川副町)は藩の外港として幕末には洋式海軍の基地となるなど商業、軍事の要地であった。常民は郷村居住の武家に生まれ、藩医佐野常徴(つねみ)の養子になった。外科医を継ぐはずの修学・青年期に緒方洪庵(こうあん)の適塾、華岡青洲(はなおかせいしゅう)が開いた家塾をはじめ京都、江戸、長崎で蘭学・医学はもとより理化学、航海、造船など先進の科学技術を学ぶ機会に恵まれたのは俊才を見込んだ藩主直正の意向が働いて明らかであった。

 西洋に学んで幕末の諸藩をリードする名君の下に科学技術開発のリーダーを任されたのは三十一歳。からくり儀右衛門こと田中久重らの人材を他藩からスカウトしたのも才覚であった。藩の団長として幕府、薩摩とともに参加したパリ万博。機械文明に圧倒されながら赤十字のパビリオンで国際的な救護組織の存在を知って、「文明進歩の証し」ととらえる知性がこの人である。「不治の病者も棄(す)てて省(かえり)みざるは道に反する」という適塾の教えにも導かれた。

 藩主直正らと並び称されて佐賀七賢人。海軍創設、洋式灯台の整備に尽くした新政府へは求められての仕官であったが、政府派遣団の責任者となったウィーン万博では多くの技術者に諸外国の先進技術を学ばせ、詳細な報告書をまとめて日本の近代化に資した。枢密顧問官など官途の栄達とは別に洋風の嵐に翻弄される伝統美術工芸の保護に努め、博愛社を源とする日本赤十字社に後半生を捧げた。明治期の人物として格別の香気を伴って伝えられる所以(ゆえん)である。
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佐野常民
※写真提供:佐野常民記念館

 
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