2014マンスリーコラム

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9月号
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青木繁《海の幸》1904年 石橋財団石橋美術館蔵

所在地:福岡県久留米市野中町1015(石橋文化センター内)


九州を知る! マンスリーコラム39

青木 繁

1882年〜1911年
(満28歳没)
福岡県久留米市出身

天才ノ光芒(こうぼう)ト悲惨。

 太平洋の群青を前にして伊豆諸島を遠望する房総半島の南端。海辺の村は黒潮と親潮が交錯する漁場を恵みとして人々の営みがある。東京美術学校を明治三十七年に卒業した青木繁はその夏、画友の坂本繁二郎、福田たねらとともにこの地・布良(めら)(千葉県館山市)の遊客となった。漁村の開放感、漁師のエネルギー。奇才の神話的想念は鮫漁(さめりょう)の漁師のダイナミックな裸体の群像となって『海の幸』に凝結(ぎょうけつ)、二十二歳の情炎はたねとの愛憎の縁を結んで残された六年の葛藤を用意する温床となった。

 青木と坂本。久留米藩士の家に生まれて学校、画塾で机を並べたことは知られる。絵画の才よりも東西の神話、古典に関心を示す早熟の青木少年に「画家」を決意させたのは、〈仮象(芸術)を創造し得るのは人類のみ〉というドイツの哲学者の言葉であった。「美術? 武術ではないのか」と頑迷な父の許しを得て上京し、絵画教師に甘んじていた坂本も後を追う。先駆(さきが)ける知友がいなければ「坂本繁二郎」はなかった。

 黒田清輝(くろだせいき)率いる白馬会賞を受賞して「青木繁」を知らしめる『黄泉比良坂(よもつひらさか)』は美術学校在学中。翌年の『海の幸』、その三年後の『わだつみのいろこの宮』・・・神話に近代の情念を仮託した浪漫主義的な諸作は写実画や美人画が主流の洋画界に衝撃を与え、蒲原有明(かんばらありあけ)ら文人は称賛の口筆を揃えた。しかし、東京府勧業博に出品した『わだつみ・・・』が評価されず、失望からの画壇批判が大禍(たいか)となって暗転した。画壇から見放され、用具を買う金も欠く貧窮(ひんきゅう)から『海の幸』を超える作品はついに生まれなかった。

 顧みてわずか四年の絶頂。布良(めら)の証しである幸彦(さちひこ)を未婚のまま出産した・・たねとの確執も併行した。帰郷して家族に疎(うと)まれ、心身を病んで自儘(じまま)無残の放浪の果てに「骨灰は高良山の奥の・・・・けしけし山の松樹の根に」と遺書して二十八年の短い命を終える。「夭折(ようせつ)の天才画家」と言えば美し過ぎよう。

 わが国は筑紫の国や白日別(しらひわけ) 母います国櫨(はじ)多き国

 筑紫平野を望む・・・・けしけし山の碑が痛ましい。遺児の幸彦(さちひこ)はのちの福田蘭童。「笛吹き童子」「紅孔雀」の音楽で忘れられない。クレージーキャッツの石橋エ―タロ―はその子である。


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青木 繁 写真提供:石橋財団石橋美術館
 
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