2014マンスリーコラム

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8月号
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鹿児島市古里町(桜島)にある文学碑。林芙美子は小学生時代の一時期を母のふるさとで過ごした。

写真提供:桜島ミュージアム
所在地:鹿児島市古里町

九州を知る! マンスリーコラム38

林 芙美子
1903年〜1951年

花ノ命ハ短クテ。

 裕福な家庭の子女は別にして女学校進学が珍しかった大正期の事情は、NHKドラマ「花子とアン」で知るとおりである。村岡花子とは十歳の違いながらのちに親しく交わることになる後輩の時代も変わりはなかった。行商の養父と母に従って転々する底辺で尾道高等女学校(広島県)に進むことができた「ナゼ」は後述するが、卒業と同時に恋人を追って上京した文学少女は八年後の昭和五年、ベストセラーとなる自伝的小説によって女流作家として脚光を浴びることになる。
 「私は宿命的な放浪者である」で始まる『放浪記』。林芙美子(一九〇三~一九五一)が、その主人公と重ねて想像されるのは仕方のないことである。恋人に逃げられた東京暮らしの日記を下敷きに銭湯の下足番、カフェの女給と下層で糊口(ここう)をしのぐ「私」は自伝として読まれ、恋しては裏切られる薄幸苦難をたくましく演じた森光子の舞台(菊田一夫作)によって「分身」は定着した。「下関のブリキ屋の二階で生まれた」と喧伝(けんでん)されたように前半生の一時期の「放浪」に違いはなかった。
 芙美子と女学校。「おそらく離別した実父の支援」と読み解いたのは祖父母の代からの付き合いで、「苦しきことのみ」でないことを知る門司の医師井上貞邦氏であった。出生の地が、同じ「ブリキ屋のニ階」でも門司・小森江だったことも立証した。『放浪記』の作者は薄幸でなければならなかったのか。二十三歳で手にした幸せな結婚生活、戦後出版ブームの追い風。殺到する依頼を一身に引き受けて書きに書いた記憶を含めて寵児(ちょうじ)となった女流の満帆(まんぱん)は多く関心の外(そと)である。
 人生の幕引きは雑誌の食べ歩き企画の取材を終えた夜。新聞・雑誌の連載四本を未完にしたままの心臓発作であった。葬儀委員長の川端康成が「文学生命を保つため、時にひどいことをした」と故人に代わって謝ったのはライバル意識や嫉妬心による同業に対する不義理、毀誉褒貶(きよほうへん)への配慮であった。好んで書いた〈花のいのちはみじかくて〉の原文とみられる直筆詩稿(じきひつしこう)が村岡花子の遺族宅で見つかったのは五年前。〈苦しきことのみ多かれど/風も吹くなり/雲も光るなり〉。

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林 芙美子  写真提供:新宿歴史博物館
 
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