2014マンスリーコラム

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6月号
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渡辺通6丁目
アソシエ地図の資料館

所在地:福岡市中央区渡辺通

九州を知る! マンスリーコラム36

渡辺 与八郎
(わたなべ よはちろう)

夢ヲ街ヅクリニ描キ。

 九州の拠点都市としてアジアに雄飛する姿からは想像すらできない。福岡の象徴である天神地区は百年前の明治後期まで博多湾の入江が迫る湿地帯であり、博多駅につらなる一帯はキツネやタヌキが出没する田畑であった。人口約七万人。近代化に遅れ、長崎、熊本の後塵(こうじん)を拝する街の未来を構想して近代都市の礎を築いた渡辺与八郎(一八六六~一九一一)。都心を南北に貫く都大路(みやこおおじ)に名づけられた「渡辺通り」はその記念碑である。
 呉服商の三代目にして商いを超えて都市改造を牽引(けんいん)した先見のプロデューサー。全九州の物産展が開催されるのに博多と福岡の結節点にある天神を造成して会場に充てたこと、にぎわいの中心だった博多地区の外周に道路をめぐらせて天神―渡辺通りー博多駅―築港に循環電車を実現させたこと。商都発展の起爆剤となるこれらの事業は片鱗(へんりん)に過ぎないが、いずれも私財を投じて惜しまなかった。家業を心配する親族会議が「与三郎」の世襲名を与八郎に変えさせて戒(いまし)めたのも道理であった。
 九州大学の母体となる国立医科大学の誘致、帝国大学昇格における貢献も先見性の証しである。第五高等学校を懐(ふところ)に中央官庁の出先が集積する熊本、西洋文明を蓄(たくわ)えて三菱造船所を擁する長崎との三つ巴の激しい争いを資金面で支えて勝利に導き、「最高学府の目の前が艶(なま)めくフトンの満艦飾では・・・」と、石堂川(御笠川)をはさむ対岸の遊郭が障害になると、代替地を提供して五十楼千人の遊郭街をそっくり移転させた。近代に向かって再生途上の都市に知性と風格を献じて勝るものはない。
 四十六歳の死は感染症のワイル氏病が原因で突然訪れた。病原体はのちに同大の研究班によって発見され、根絶されている。資金提供を含めて裏方に徹した生涯。固辞し続けた「渡辺通り」は没後の命名である。市内の幹線道路網構想や門司~折尾など他都市の鉄道事業に深くかかわっていたことも最近見つかった資料で明らかになっている。歴史に「イフ」はないが、長命を仮定して「その後」について限りなく想像させられる傑人である。
※物産展:第13回九州沖縄八県連合共進会

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1921(大正10)年頃の博多電気軌道
アソシエ地図の資料館

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渡辺与八郎
 
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