2014マンスリーコラム

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1月号
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岩崎弥太郎の像(三菱重工業株式会社 長崎造船所 史料館 所蔵)

所在地 
長崎市飽の浦町1-1

九州を知る! マンスリーコラム32

岩崎 弥太郎

国ノ有事ニ私利顧(かえり)ミズ。

 赤レンガ造りのレトロなその建物は、長崎港に沿って稲佐山の麓(ふもと)に展開する三菱重工業長崎造船所の奥まった空間にある。三菱の発祥と近代日本を牽引(けんいん)した歴史を伝える史料館。入館者を迎える岩崎弥太郎像は、港口に浮かんでグループの炭鉱として栄えた高島に建つ巨大像の原型で、三年前にこの場所に納まった。土佐(高知県)の最下層の藩士に生まれながら幕末・維新の息吹と西欧文明をこの街で吸収し、一代にして三菱財閥の基礎を築いた男の威風は、明治の起業家の比類なき雄志と熱情を伝える。
 長崎が舞台として登場し、この街出身の福山雅治が坂本龍馬を演じたNHK大河ドラマの『龍馬伝』(二〇一〇年)。香川照之の岩崎弥太郎が準主役で配されたこともあり、期待してテレビに向かった市民にとって鳥かごを背負って汚れ役の極まった「香川弥太郎」は想定外であった。「福山龍馬」との対比でただの引き立て役ではないかと不評を買ったのは仕方のないことだったが、弥太郎の才智と反骨のバイタリティを究極の役づくりに託した演出を斟酌(しんしゃく)するに土佐藩の事情を説明しておく必要があろう。
 上級武士(上士(じょうし))と下級武士(郷士(ごうし))に分断されて厳格だった身分制度である。関ヶ原で西軍に与(くみ)して敗れた長曽我部氏に代わり領主になった山内氏は、前領主の旧臣たちを半農半士の郷士に格下げして蔑(さげす)み、直臣(じきしん)の上士だけが藩の要職に就く差別を二百六十年間続けた。幕末の争乱期に土佐勤皇党を結成して過激な尊王攘夷運動を展開した武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎らはいずれも郷士。体制に対する積年の不満の噴出であり、弥太郎の岩崎家は郷士株さえ売り払って地下浪人(ぢげろうにん)に没落していた。
 そんな境遇でありながら土佐藩で随一の学者と言われた吉田東洋の塾で後藤象二郎ら上士の子弟に交じって才能を認められ、藩が長崎に開いた直営商社・土佐商会の責任者に抜擢されたのは時代であり、転生の運命を拓く機縁であった。艦船・武器の買い付けと郷土の特産品の輸出を託されてトーマス・グラバーはじめ西欧の冒険商人とわたりあい、時に狡猾な商法に痛い目に遭いながら交易・実業の可能性を確信した。片鱗をうかがわせる少年時代の逸話が残っている。「おまえはいつも大口をたたく。俺の頭の影をつかんだら銭(ぜに)百貫やろう」 ― 塾仲間の挑発を「そんな銭を持っているはずがない」と断り、「紙一束(十帖(ちょう))」にも首を横に振って、「紙一帖!」ではじめて応じた。土蔵の白壁に映った相手の頭を手で押さえて賭(か)けに勝つ。状況から勝機を見極める天性の才を示す例である。
 土佐藩から三隻の船を引き継いで始めた事業。国際化と文明開化の曙(あけぼの)に風雲児が格闘した戦場は海運業であった。内外の同業各社と激しく争いながら、嵐で漂着した琉球島民五十四人の惨殺事件をめぐる台湾出兵や士族の反乱の鎮圧に苦慮する政府の軍事輸送に社運をかけた。商才と「公」に殉じる武士道との複合による決断。大隈重信、大久保利通ら権力中枢の信頼を得て政府船の委託運航を一手に引き受けるなど海運育成の国策を享受して念願の上海航路を開くまでになる。「郵便汽船三菱」の看板を掲げて、西南の役を経た明治十年には海運界の覇者になっていた。
 重篤(じゅうとく)の胃がんを抱えた晩年が、大隈、大久保なき政府の〝岩崎つぶ潰し〟と、渋沢栄一らに作らせた反三菱連合の共同運輸との死闘の最中(さなか)だったのも風雲児である。商事、金融、鉱業など多角化の種を蒔(ま)いて明治十八年二月、弟弥之助、長男久弥に毛利元就の故事を遺言し、五十歳で絶命した。「重工業の三菱」は、二代目弥之助のもと、日本初の艦船修理工場である長崎製鉄所を政府から買収したことに始まる。共倒れを避けた海運二社の合併で生まれたのが日本郵船である。
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三菱重工業株式会社 長崎造船所 史料館
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三菱重工業 長崎造船所




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