2013マンスリーコラム

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8月号
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黒田如水公御鷹屋敷(おたかやしき)跡…晩年を過ごした城内の屋敷跡の碑
所在地:福岡県福岡市中央区城内

九州を知る! マンスリーコラム27

黒田 如水

人ニ媚(こ)ビズ富貴(ふうき)ヲ望マズ。

 黒田の姓を持つ戦国武将の生涯を描いた司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』は、ヒーローの通称名の官兵衛が「くゎんひょうえ」と発音されたうんちく蘊蓄で始まり、「名前は孝高(よしたか)、洗礼名がシメオンで入道してからは如水(じょすい)。〝水の如し〟という称を彼は好んだ」と続く。黒田如水。秀吉の天下取りを演出した名参謀にしてキリシタン大名、福岡藩の藩祖とされるその人である。
 宇多源氏に連なる。室町末期の乱世に発祥の近江を追われ、備前福岡(岡山県)、播磨姫路(兵庫県)を流浪、目薬の新商法(行商)で一族の物語は幕が開く。財で人を養い、豪族となるのも時代であったが、嫡男・官兵衛の器量が命運を担った。風雲を予見して西国の毛利よりも新興の信長につき、秀吉の懐で智将たり得たのは卓越した資質による。本能寺の変は毛利陣営の備中高松城を攻める最中に起きた。
 茫然自失の秀吉を励まし、京までの二百キロを強行軍して明智光秀を討つ「中国大返し」の奇策は、主君さえ恐れさせた。城攻めの妙、戦わずして敵を味方にしてしまう知略。重ねた手柄の論功が豊前十二万石にとどまったのは、官兵衛の才智器量に怯(おび)えた秀吉の猜疑心(さいぎしん)によると言われる。戦闘を好まなかった戦(いくさ)の天才、隠居の身で一度だけ天下をうかがった。
 東西決戦の前夜、大名の大半が出陣したあとの九州・豊前にあって九千の兵で近隣を席巻した。一日で決着した関ヶ原の誤算がなければ・・・筑前に得た五十二万石は息子長政の戦功、「福岡藩」は父子の望郷であった。四年後の慶長九年(一六〇四)の弥生二十日の朝、五十八歳で没。司馬氏は、「おかしなほど私心の薄かった男は自分の最期まで予見し、その日時に溶けるように死んだ」と長編を結んでいる。
 



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