2012マンスリーコラム

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9月号

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マンスリーコラム 上野彦馬

写真ハ歴史ノ証人ナリ。


 右手を懐(ふところ)に海の彼方を見つめる坂本龍馬、愛犬をお伴(とも)に着流しの西郷隆盛。高知・桂浜と東京・上野公園に建つ像は、維新の二傑の面立(おもだ)ちを伝えるという意味で違いは大きい。坂本像が日本初のプロ・カメラマン上野彦馬による写真の再現なのに対して、西郷のそれは実弟従道(つぐみち)と従弟大山巌の顔で合成した肖像画をモデルにした苦肉だからである。西郷には確証を伴う写真がない。刺客対策だったという。
 上野彦馬(一八三八~一九〇四)は、銀細工職人が居住してその名がある長崎・銀屋町に生まれた。天文学に通じた奉行所の御用時計師、オランダ人と取引する商人、火薬、薬剤を研究する蘭学者・・・多才な父と、化学に連なる“錬金街”のDNAを濃厚に受け継いだらしい。日田・咸宜園(かんぎえん)の三年を経て、オランダ人医師ポンペに舎密学(せいみ)を学ぶ。「せいみ」は蘭語の「chemie(セミー)」の音訳、つまり化学のこと。蘭書で目にした「fotografie」の文字を、写真機と出会う二十歳の天啓としたのはそのDNAであった。 
 レンズと暗箱を通して化学物質に像を結ぶ道理を理解し、薬剤の精製・調合に能力と情熱を傾注したのはもとよりである。湿板写真と言われる技法の感光剤に欠かせないアンモニアは肉が付着したまま土中で腐らせた牛骨を、青酸カリは牛の生血を日光にさらして精製した。悪臭の苦情が絶えないのは当然であった。技術と技法を磨き、中島川河畔に写真館を開業したのは維新前夜。「写真は人の魂を抜く」と信じられた時代に坂本、高杉晋作、大隈重信ら志士たちがカメラの前に立ったのは「文明」を信じた証しでもある。
 明治の彦馬は、太陽面通過の金星を追って来日した米観測隊に協力し、西南の役の戦場にも立った。若き大隈が新聞社の現地特派員として戦況リポートに活躍したことは知られるが、彦馬にも田原坂の生々しい写真が残る。写真術のパイオニアであるとともに報道カメラマンの草分けでもあった。

所在地:長崎県長崎市栄町7

上野彦馬

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彦馬が開業当時撮影したといわれる崇福寺楼門

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